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「雨の日の訪問者」
土砂降りの雨だった。こんな雨の日の夜はバスではなくタクシーで乗り着ける
かもしれない。ワイパーをハイ・スピードで作動させても拭いきれなかった。
フロント・ガラスは霞み、行き交うヘッド・ライトが滲んだ。タクシーが停車す
るたびに降車する男を凝視したが、向かい側の小洒落たマンションへ駆け込んで
行った。
男の所在は容易く割れた。逃げている訳ではないし、追われる理由のない人間
には隠れて暮らす必然性がないからだ。何の変哲もないまともな暮らしほど退屈
なものはないが。幸せの基準を計る物差しなんてありはしない。
男は独身の地方出身者で都会のぱっとしないアパートに単身住まいし都会の
ぱっとしない中小企業のぱっとしない営業マンとして働いていた。勤続3年目。
社内の風評もぱっとしない。どちらかと云えば変わり者だと評されていた。
結局、営業回りが続き会社では捕まらず、自宅で張り込んだ。事が事だけに早
朝の出勤時を襲うよりも帰宅を待ち構える事にした。
時計の針が午前零時を刻む頃、男は現れた。家主から聞き込んだ特徴と雰囲気
が一致した。ずんぐりむっくりの体型に溝鼠色のヨレヨレでダボダボのスーツを
着込み、型の崩れた鞄を下げていた。黒いコウモリ傘を指しているので顔ははっ
きりとは拝めなかったが。間違いなかった。煙草を灰皿に捩り潰すとレインコー
トを羽織りながら車を降り立った。
男は微酔い加減に上機嫌でずぶ濡れの裾には一向に構わず、鼻歌交じりに身体
を揺らしていた。軒下で傘を畳み雨水を切る時、少し腰が泳いだ。もう一歩で千
鳥足になる寸前だった。ポケットをまさ繰り鍵を取り出すと鍵穴に差し込んだ。
部屋に入る寸前が勝負の分かれ目だった。背後から男を呼び止めた。
名前を告げられ男は習性からか即座に返答しドアの取っ手を握り回しながら振
り返った。牛乳瓶の底のような眼鏡が蒸気で曇っていた。ぷっくりと膨らんだ頬
はやや紅潮し油っぽい汗が滲んでいた。「新聞ならお断わりですよ」男は興味が
失せたように嘯いた。訪ねて来る知人など一人もいないと云うきっぱりとした口
調だった。「ビールと焼酎とバーボンをごちゃ混ぜにして呑みましたね」「一
体、何の用事ですか」男が怪訝さを露にした。用件を切り出した。
女には理由があった。あの時、どうしても息子を捨てなければならなかった。
それから20幾年かの歳月が過ぎ去った。女は息子を探した。逢いたいが逢う
ためではない。逢ってくれない事は判っていた。息子が何処でどんな暮らしをし
ているのか知りたかった。そしてどんな暮らしをしていようが女は財産分与で手
に入れた相続金の全額をその息子に譲りたかった。
母からの贈り物・・・「許して欲しいの」の一言を添えて。
「受け取りません」淡々とした口調で男は断わった。表情には起伏が微塵も感
じ取れなかった。「気持ちは判ります」「判りません」即答すると踵を返した。
「失礼します」取っ手を捻り上げた。ドアの軋む音が響き渡った。
「待てよ」口調を荒げた。それが少々不本意だったが。「いいじゃないか。汲
んでやれよ。不義理した母親の気持ちくらい。依怙地に突っ張るなよ。いい歳
掻っ払って・・・」半開きのドアがピタリと止まった。男は取っ手を握ったまま
立ち尽くし肩で大きく深呼吸すると短い首を捩じ曲げた。まだ蒼い痘痕面だっ
た。「最も大切な瞬間は・・・もう、二度と戻って来ないんです。それは一番、
母が判っている筈です」繰り返した「母が判っている筈です」「ああ、そうだろ
う。だから察してやれよ」男は鼻で笑い、挑むように語り始めた。
「僕には僕の生活がある。そっとしておいて貰える権利がある。そう思いません
か?」男は続けた。「母には僕の権利を守って貰える義務があるんです。貴方に
は判らない。知らされている事情は一方的なものだろうから・・・」対峙し沈黙
が停滞した。ほんの僅かな時間だったがとても長い時間が経過したようにも思え
た。
雨音がトタン屋根をドラムのように激しく叩き続け、詰まった下水溝から漏水
が溢れ出していた。切れかかった蛍光灯が蠅のように唸り暗闇で稲妻が光ったよ
うに一瞬、男の無表情を青白く映し出し陰鬱な陰を投げ掛けた。
「母親の連絡先が書いてある」名刺を差し出したが男はゆっくりと首を振っ
た。「郵便受けに入れとくよ。気が向いたら・・・」「向かないでしょう」「あ
あ構わない。無理強いはしない。最後に聞きたい。母親を許してくれるか」男は返
答を返さなかった。それが返答だった。了解した。「伝言はないかな」それが本
当に最後の嘆願だった。「元気で暮らして下さい。遺産相続金は母の物だから、
母の幸福のために使って下さい。さようなら」頷いた。そして突然押し掛けた無
礼を詫びた。「こんな土砂降りの雨の中を・・・」男は丁寧に頭を下げた。「わ
ざわざ・・訪ねて来て下さってありがとう。御苦労様です。お休みなさい」
軋むドアの奥に男の姿が消えた。下足場で空缶と空瓶が転がり衝突り合う音が
した。家でもビールと焼酎とバーボンをごちゃ混ぜにして呑むのだろうか。
それは薦めないんだが・・・。やがてテレビの猥雑な音が聞こえて来た。
雨足は弱まる気配がなかった。レインコートに付着した水滴を払い柱に凭れ掛
かってトタン屋根の庇から滝のように流れ落ちる雨水を眺めながら煙草を燻揺ら
せた。それから水溜まりを飛び越えて路駐した車まで一気に駆け込んだ。
悪態を吐いて助手席に雪崩込んだ。ステアリングを握り締めた相棒がイグニ
ション・キーを廻しながら「お疲れさまです」と告げ、間髪入れずに「どうでし
たか?」と泣ける感動話を聞きたがった。「ビリー・ジョエルが好きらしいよ」
着座したままレインコートを脱ぎ捨てるのに手間取り、くわえ煙草を間抜けに捻
じ曲げて火種を飛ばし奇声を上げながらどうにかシートベルトをフックし終える
と待ち構えた相棒がスイッチを捻りヘッド・ライトを灯してアクセルを踏み込ん
だ。「”僕には僕の生活がある。だから、そっとしておいて欲しい”ってよ」
「”マイ・ライフ”ですか」「吟遊詩人って面かよ。あの痘痕面は。柄じゃない
よ。全く、むかつくぜ・・・。嫌がらせで奴の口座を割り出して、強引に相続金
を振り込んでやろうと思ったぜ」「判るような気がしますね」「判るだろ。むか
つく俺の気持ちが」「いや、彼の・・・」「気持ちが・・か?」「まっ、そうだ
な」あの頑固なまでの強情さは確かに潔かった。
突っぱねないと彼も辛かったろう。「これから呑りませんか」「ああ、いい
ね。ビールと焼酎とバーボンをごちゃ混ぜにしてな」「悪酔いしたいんですか」
「いや、きっと、美味い・・・んじゃないのか。今夜なら」
依頼人に報告の義務を課せられていた。嫌な役回りを負わされるのは常だった
が、受話器からか細い蚊の鳴くような嗄れ声が途切れ途切れに伝わってきた。
「貧しい生活なんて・・・。お母さん、極めて平均的な暮らし振りですよ。この
東京では。自立した大人は皆、喘いでいます。不自由のない生活なんて可能なの
は学生か如何わしい商売に手を染めている輩だけですよ。そんな街で息子さんは
敢えて堅実にくらしているに過ぎません。賢明な若者ですよ。悲観的でなく前向
きの人生をしっかりと自分の足で歩み続けています。実に逞しい。繰れなく、実
直で。その姿勢は爽やかですらある。心配は無用。大丈夫ですよ。息子さんは。
都会生活に順応し謳歌しています。お母さんことは決して忘れていませんよ。許
してくれたかって?ええ・・・”遠い日の花火”のように思い出すと・・・云っ
ていました。微笑みながら・・・。それから気持ちは嬉しいが受け取れないと
も。お母さんの健康と幸福のために使って欲しい。そう気遣っていました。本当
にそう云っていました。今はまだ逢えないが、もっと成長した立派な姿を見て貰
いたいなどと格好つけたことも・・・。シャイなんですね。息子さんは。だから
お母さん・・・。息子さんを遠くから見守ってあげてくれませんか」
依頼人は沈黙したまま最後まで聞き入っていた。一言も聞き逃しまいと。受話
器を持つ手が小刻みに震えているのが判った。精一杯、平常心を取り繕った声を
絞りだした。「ありがとう・・・ございました」それから、わっと泣き崩れた。
そっと受話器を置いた。今夜の酒は格別、ほろ苦い。
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